原信太郎
2012年 07月 11日
鉄道模型と鉄道ジオラマ
http://googletopic.dtiblog.com/blog-entry-478.html
(*)原信太郎さんインタビュー(84歳当時)
http://www.slownet.ne.jp/sns/area/life/reading/interview/200601231648-1000000.html
第1回 原信太郎さん「自由人の誕生」
<どうしたら遊べるかを考えていた子ども時代>
私は小さいときから、勉強と働くのが大嫌いでした(笑)。
---いきなりカウンターパンチを喰らったようですが、なぜ好きではなかったのでしょう。
私の家は商売をしていました。祖父は、刻苦勉励で一代で成した人です。朝から晩までほんとうによく働いていました。おじいさんの日頃の働きぶりを見ていて、私は働くのは嫌だな、とつくづく思いました。4歳のときから、そう考えていました。
慶應幼稚舎3年のときに、算術で金利計算をする時間がありました。当時の年利4%で家計がどうなるか、という計算をしました。そこで、いくらあればわが家では暮らせるのか、逆算をして元金を算出しました。月に250円あればいい、ということになりました。
そこで、家に帰り祖父に言いました、「自分で計算したら、これだけ元金があれば、あくせくと働く必要がない。家にお金はあるのだから利息で生活していける、おいしいものを食べて、おもちゃも買えるし」と。
そうしたら、おじいさんにひどく叱られました、「働かざるもの、食うべからず」と(笑)。お前は働かないで生活しようとしているのかと。でも、“最小の作用で最大の収穫”が経済の大原則ですから、どうして叱られたか、いまだに不思議です。まあ、明治の人でしたから、当然かもしれまんせんが。 そんな子どもでした。
宿題が大嫌いな子どもでして、家ではとにかく遊びたかった。どうしたら怠けて勉強しないで遊んでいられるかをいろいろ考えました。しかし、勉強しないと遊べないことがわかったので、学校にいる朝8時から午後2時までは勉強で拘束される時間だと覚悟して、この時間だけは嫌だけれどとにかく勉強してものを覚えよう、ということにしました。そうすれば拘束時間以外は自分の自由になると。
ノートに必死に書いて記憶しました。書くと覚えやすいんですね。
<鉄道模型に熱中>
幸運にも幼少のころは、おばあちゃんに甘やかされて、4歳のときからおもちゃはツケで買うことができました。飲み屋のツケはあるけれど、おもちゃ屋のツケは聞いたことがありませんが(笑)。鉄道模型に熱中し、一人でおもちゃ屋に行き、ツケ払いで模型を買いました。いいものを買う、私の原点はここにあります。そのときに買った機関車の一つが今でも残っています。
昭和初期、当時の浜口雄幸宰相の給料がたしか450円の時代です。その頃、495円もする、アメリカ・ライオネルの機関車を私は欲しがったのです。東京・上野の松坂屋にそれがありまして。当時としては、天文学的数字でした。
なんでもツケ払いで買ってくれたおばあちゃんでしたが、そのときは3ヵ月待たされました。「おばあちゃん、すぐにはお金ないからね」と。3ヵ月かけて準備をしてくれたんですね。ほかにも小型撮影機やカメラなど買ってもらい、お金のかかる楽しみを味わわせてもらいました。
でも、おばあちゃん、躾は厳しかったですね。行儀にはとてもうるさかったです。やたらに甘いわけではなかった。おばあちゃんなりのポリシーがあったのでしょう。
<勉強嫌いの研究好き>
私はエンジンが好きだったので、祖母は自動車も買ってくれました。1937(昭和12)年のことです。ダットサンで1,560円しました。当時ピアノはアップライトが960円、ライカが800円の時代です。ダットサンを買ってもらったことは、私の人生に大きな影響を与えることになりますが、それについてはあとで触れましょう。
---数字や日付についての記憶がすごいですね。
勉強は嫌いですが、好きなことはしっかり覚えています。
じつは中学2年のときから、独学でドイツ語とフランス語を勉強してました。道楽をするためです。というのは、模型機関車が大好きでしたが、日本製のはよくない。ドイツやフランスにいいものがあり、カタログはドイツ語かフランス語で書かれているのです。カタログを見て模型を注文するには、ドイツ語やフランス語をやらないといけないと思いました。
まあ、勉強というより、好きなことを楽しむ、そのための研究みたいなものです。学校の勉強とは違います。勉強は嫌いですが、研究は大好きです。
<小学時代の鉄道旅行>
幼稚舎の5年のとき、東海道線に特急つばめが走り始めました。たしか、大阪まで乗車券が5円90銭、特急券が2円30銭でしたね。それに乗って関西に12日間、一人で旅をしました。関西の汽車と電車に乗り続けました。鉄道好きの私のために75円のお金を、おじいちゃんとおばあちゃんが出してくれました。
出発のとき、おじいちゃんからハガキを渡されました。表の宛名欄に自宅の住所が書いてあるハガキです。おじいちゃんが言うには「旅先ではこのハガキを毎日出しなさい」と。
ハガキの裏には「元気です」とすでに書かれていて、筆無精の私でもただ日付を書いてポストに投函すればいいようになっていました。その頃、小学生の子を旅に出すような家はなかったはずですね。
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第2回 原信太郎さん「真実を貫く覚悟」
<忍び寄る戦争の足音>
関西へ旅をした1930(昭和5)年頃は、もう戦争の足音がし始めていましたね。
私は軍隊ほど嫌いなものはありませんでした。
中学時代には軍事教練の時間がありました。そこで、徴兵制と志願兵制のどちらがいいかということがテーマになりました。クラスの中で、志願兵制がいいと手を挙げたのは、自分一人でした。私としては、人を殺すことが手柄になるような制度が嫌でした。志願制がいいと手を挙げたら、教官に怒られました。満州事変にも反対でした。
日本とアメリカの関係が怪しくなってきた1940(昭和15)年頃、富士山の裾野で軍事教練がありました。これも嫌でしたね。
その頃、日米が開戦したら日本が負けると言ったら、クラスの全員から総掛かりで殴られました。とくに運動部の連中にやられました。
なぜ日本が負けると私が思ったのか、もちろん理由があります。
<自動車に教えられた日米の差>
ダットサンを祖母に買ってもらったことは、すでに話しましたが、その頃、自動車の車検費用はかなり高かったんですね。車検は毎年やらなければいけませんが、自分の小遣いではとても車検代が捻出できません。
そこで自分で部品を買って自分で修理して安くあげることにしました。小さいときからおもちゃの機関車を手にしたり作っていたからできたことです。道楽も役に立つものですね。
自動車整備工場の場所を借りて整備しました。そのときたいへんなことを知りました。1938年のことですが、その年フォード自動車が革新的なV-8気筒エンジンを発売しました。整備工場でそのエンジンを見る機会を得て、ダットサンのエンジンと比較することができました。専門技術的な優劣の差は明白でした。材質、加工技術とも、日米両国の力の差をまざまざと感じました。
部品や作りだけではなく、潤滑油の差も歴然としてました。これだけの差があっては戦争に勝てるわけがないと思わざるをえませんでした。それに石油の備蓄もあまりありませんでした。そんななかで精神論だけで気合いを入れている日本政府など信用できないと思いました。
だから、日本は負けてしまうと思っていました。そう言ったら、袋だたきにあったわけです。
<「嘘をつかずに暮らそう」>
こんなふうに日本のなかで戦争に反対していると、どうなるのだろう、と考え始めました。べつに凝り固まった考えを持っていたわけではありません。ただ国家主義、軍国主義は大嫌いで、自由主義、民主主義が好きでしたから、日本にはとても住めそうもないと感じていました。いずれ殺されるかもしれない、とすら感じ始めていました。
ですから、その頃から下着も寝間着もすべて白を着ています。そのほうが清潔で清々しいし、気持ちがいいですし。ある種の心構えはありました。
裏表があるのは嫌です。嘘をつくのがいやでした。死んでもいいから、嘘をつかずに暮らそう、そう思っていたくらいです。
その頃は、まさか80歳過ぎまで生きていられるなんて、夢にも思っていませんでした。二十歳までくらいしか生きられないと思ってました。まあ、堂々と戦争反対を言えたのも、慶應という学校の自由な校風もあったかもしれませんが。
1941(昭和16)年に東京工業大学に入りました。その頃から、学徒動員が始まりました。私は1942年の卒業で、動員にとられました。当時東工大の学生は、技術者として優遇されていましたから、技術将校です。試験に受かればすぐに中尉になれます。
私は戦争反対を言っていたので、民間の企業に入りました。
<東洋と西洋>
どうも私は、日本的なものが合わなかったのかもしれません。
色にしても、私は原色が好きですね。日本人は渋い色を使うでしょ。それは欲望を抑えることを美徳と考えているのではないかしら。
たとえば桂離宮とベルサイユ宮殿を比べると、明快です。桂離宮は寒い建物で、我慢しながら質素なものを食べる、そこに趣きがあるととらえていますね。
ベルサイユ宮殿は逆で、豪華を極める建物で贅を尽くして楽しみます。小さくて寒い建物で、少しの食べ物で我慢するのが美と心得ている日本とは対照的です。日本・東洋と西洋の違いでしょうね。
私は欲望を抑えて我慢するのが嫌いです。“武士は食わねど高楊枝”というスタイルが馴染めませんでした。
欲望を抑えること、我慢することは、結局、ときの支配者が行った施策でもあります。贅沢が好きになって不満が大きくならないうように、欲望を抑えるのが美徳と教えてきたのではないでしょうか。
---でも和服がお似合いですね。
和服は好きでしたね。小学校の頃から着ていました。会社に勤めるようになってからも会社に着ていきましたから(笑)。
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第3回 原信太郎さん「好きなことにこだわるのが原点」
<たくさん欲しいからギブ&テイク ” >
---働くのが好きではない原信太郎さんにとって、会社で働くというのはどんなでしたか。
1951年にコクヨに勤め始めました。
私は働くのは嫌いだけど、もらうものはたくさん欲しい(笑)。
私の考えはテイク&ギブではなく、ギブ&テイクです。まずギブします。そしてテイクする。会社にたくさんギブするのだから、テイクする権利があります。たくさんギブしてたくさんテイクする、これが理想ですね。
会社に入ったときは1、2年間、出勤簿に印を押しませんでした。すると総務部長さんが出てきて「どうしても出勤簿を押してくれ」と。「じゃあ、1年だけ押しましょう」ということで押しましたが、こんなことをしていても、効果がないし、会社に貢献できないとつくづく思いました。形式的に出勤するより、外に出ていろいろ見て自分にインプットするほうがよほど会社に貢献できるわけです。外に出て、関係のないことを見て回ってインプットするからこそいいアイディア、仕事が生まれます。
コクヨでは、子どもの頃鉄道模型のために欧米から取り寄せた雑誌で情報を得ていたことがいろいろ役立つことになりました。
これからの時代には在庫調整計画プログラムが必要になると考えました。完成した商品の物理的・事務的処理を機械でやることにより、省力化、ミスの減少、倉庫立体化による建設面積の減少等、さらに在庫調整も正確にできて、経営メリットはひじょうに大きくなる。
こうして1963年に、立体自動倉庫を企画して作りました。多様な商品を収容できる全自動の倉庫です。ここには、1930年代アメリカ・ペンシルバニア鉄道の列車自働運行制御装置を説明した子ども用の本がとても参考になりました。趣味の鉄道研究で得た自働列車制御装置と、フォークリフト、昇降機を応用した、当時としては独創的で、世界で初めてのものです。のちに世界に広がりました。
仕事と直接関係のない世界も貪欲に知ろうとしてきた結果です。好きなことで覚えた体験や知識は、いつでも自由に応用できるものですね。
<「会社に忠誠を誓う必要はない」>
---いわば、コクヨでOA化ビジネスの最前線を担ってきたことになりますね。
私は汽車が好きですが、自動車も好きでした。ですから、コクヨ時代は、入社当初の1951年から東京と大阪をしょちゅう行き来していましたが、鉄道には乗らずほとんどクルマで往復していました。もちろん高速道もなく、舗装されていない所も多かった時代です。 でも、クルマで走って外を見ていると、いいアイディアが湧いてくるんですね。行きと帰りで道を変えるようにします。余分な情報をたくさん仕入れるためです。
そういうことも、企画を生むときに大いに役立っていたはずです。
---会社ではずいぶん変わり者だったのですね。
先ほど言いましたが、若い頃から和服を着て会社に行ってました。これについても総務からは、和服を着ないで来てくれと言われました。
新人の社員研修でしゃべらされたこともあります。
「会社に忠誠を誓う必要はない。仕事が面白いと気づいたらしっかり働いてくれ。半年、1年やって面白くないなら、辞めてもいい」
---型破りなスピーチですね。
そうしたら、総務責任者から、「困るよ」と言われましてね(笑)。
とにかく仕事は自由に楽しくやってきました。会社ができるだけたくさんもうかるようにする。そして、もうかったらたくさんいただく。それでいい、と思っています。
<新幹線の“一番きっぷ”をゲット>
---とにかく好きなことには、とことんこだわるのですね。
私は“一番きっぷ”の収集マニアです。鉄道の開通時の一番きっぷを集めています。 しかも他人が持っているものを、買ったりして集めるのではありません。自ら出かけて、実際に自分で一番切符を購入するのです。
1964年に東海道新幹線が開通しましたね。そのときの一番切符を持っています。これも自分で並んで切符を買いました。
もちろんすんなり買えるわけではありません。開通の9日前から並びました。仮眠できるように、アルミの寝台を持って行って、まだ工事が終わっていないきっぷ売り場へ出かけます。そして工事を担当している建設会社に酒瓶3本を差し入れして、なんとか工事現場の脇で並び始めました。もちろんトイレもまだありません。そんななか9日間、寝泊まりして、新幹線の一番切符を手に入れたんです。
当時、会社で役員をしていましたが、役員の会合をさぼって並んでました(笑)。
他にも、1933(昭和8)年に開通した、東京の帝都井の頭線(現京王井の頭線)や、伊豆急のも持っています。好きな物は絶対に手に入れます。
---自分で足を運んで収集する、これは並大抵の努力ではできないことですね。
好きだからできることですね。
これも独学ですが、ハモンドオルガンを弾きます。クラシックから歌謡曲までなんでも演奏します。600曲以上になるでしょうか。
---海外にもよく出かけ、いろいろな外国語にも堪能と伺いましたが。
これまで150回くらい海外には出かけています。1956年からはレンタカーを使って回ることも多くなりました。
英語のほか、ドイツ語、フランス語、スペイン語、イタリア語、オランダ語はなんとか話せます。他にも読むくらいならなんとかできるのが、いくつかあります。外国語も、自分が興味を持てばこそですね。
はじめは自分だけで海外に行ってましたが、帰国後家族に話しても、海外のよさをわかってくれないようなので、だったら家族を連れて行こうと、できるだけ家族を連れていくようになりました。
---なるほど、そんなこともあり、お子さまたちは皆さん、国際的に大活躍をしていらっしゃるのですね。
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第4回 原信太郎さん「感動を共有できる出会いがうれしい」
<原流健康法>
---原信太郎さんは、肌はつややかで、とても80歳を超えているようには見えません。視力もまったく衰えないようですね。なにか健康法に秘訣がありますか。
いや、とくにないんです。
食べ物は偏食しています(笑)。鶏、豚は嫌いなんです。牛のいいところしか食べない。魚もトロ以外は食べません。野菜も嫌いです。
---はあ……。
酒はいっさい呑みません。煙草もやりません。コーラは、一日2リットル飲みます。
---2リットルも。
そうです。もう戦後からずうっとです。とくに理由があるわけではありません。おいしいから呑む、それだけです。
---その頃から、コーラはありましたか。
ありました。1945年から飲んでいます。
---スポーツはいかがですか。
運動は、小さいときから嫌いでしたね。寒いとか暑いのも嫌いで。
泳ぐにしても、陽に灼けるのが嫌いで、夕方になってから泳ぐくらいです(笑)。
でも、体力がないわけではありません。一昨年までは50キロのトランクを持って歩いていました。さすがに2年前に網棚に載せられなくなって、いまは持たなくなりましたが。 健康でとくに心がけていることはありませんね。体にいいからと、なにかをするようなことは一切ありません。
---好きにする、それが原流の健康法ですね
<私のシャングリ・ラ(香格里拉) >
---いよいよ、原信太郎さんが生涯で一番力を入れてきた鉄道模型のお話を聞かせてください。
今は鉄道模型に集中しています。実物の鉄道は家にとっておけませんから(笑)、模型になります。これが大好きで凝っています。
これまでのコレクションは5000両を超えます。ただ、小さいHOケージはお蔵入りして、今は1ケージと0ケージ(45ミリ~32ミリ)を集めていて、現在およそ1000両あります。ます。
市場では私の好むものが少ないので、子どもの頃から自分でも設計して作ってきました。入手可能なパーツにしても規格が合わないので、制作は苦労しますが。
作る対象は、ヨーロッパのものが80%、アメリカが10%、日本が10%です。
動力伝導では模型界のほとんどがウォームギアでしたが、私は実物に近い運転性能を追求してスパーク歯車で通してきました。外観だけではなく構造そのものを本物にそっくりにします。でも、小さい分だけ本物を作るよりたいへんです。
ブレーキにしても、電気制御のブレーキを20年前から実際に採り入れています。
部品などで自分で作れないものは外注し、それを組み合わせます。すべて自前で、ステンドグラスがはめ込まれた列車もそのとおり忠実に復元しています。
私が1931年に最初に作った電気機関車は、70年以上経たいまも、快走を続けています。その他、戦前に作られた機関車、電車、貨車、客車は、技術の進歩に合わせて改良に改良を加え、現在も快走しています。
長年模型には親しんできましたが、最近やっとコツをつかんできました。今、興味があるのは、私鉄の古い車両です。1940年ごろまでの電車です。
<あと100両は作りたい>
海外のマニアにもずいぶん注目されています。
たまたま出逢ったアメリカの某大手企業の日本支社長だった人も、家に10回くらいいらしたでしょうか。「原信太郎さんの模型を見ると、楽しい発見がある」と言ってくれます。
銀座の模型店でたまたま知り合ったオーストラリア人は、クラシック演奏家でした。関西へのオーケストラ演奏の合間に、わざわざ私の自宅に見に来ました。本物のブレーキ音に感心していました。
---これからの目標はいかがですか。
あと100両は欲しいですね。1年に10台作れば、10年で作れますね。95歳までは生きて作り上げたいと思っています。
(*) 時忘れる鉄道ジオラマ 原鉄道模型博物館が開館
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kanagawa/news/20120711-OYT8T00001.htm
世界的に著名な鉄道模型製作・収集家の原信太郎さん(93)のコレクション約1000両を展示する「原鉄道模型博物館」が2012年7月10日、横浜市西区高島の複合商業施設「横浜三井ビルディング」2階に開館し、鉄道ファンら約1300人が訪れた。
開館記念式典では、館長の原さんが「博物館が横浜の『すごいもの』として何十年も居続けてくれるのを楽しみにしています」とあいさつし、テープカットを行った。
開館後、室内では世界最大級の鉄道ジオラマ(約310平方メートル)の周りにはたくさんの鉄道ファンや親子連れが集まり、フランスのリヨン駅をイメージした駅舎(幅5メートル)の周りを走る列車に見入ったり、鉄の車輪とレールが出す本物さながらの音に聞き耳を立てたりしていた。
(*) 原鉄道模型博物館
http://www.hara-mrm.com/
所在地;神奈川県横浜市西区高島一丁目1番2号 横浜三井ビルディング2階
アクセス;JR横浜駅 徒歩5分
アクセス;横浜高速鉄道みなとみらい線 新高島駅 徒歩2分
鉄道の話題
http://googletopic.seesaa.net/category/7589627-1.html
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